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Porter Classic / Leo Yoshida
Interview at PHAETON


ファンをはじめ、スタッフでさえも知らない秘話が存在します。人を魅了して止まないポータークラシックの興味が尽きない部分を、PHAETON、Porter Classic金沢との関係も含め、代表の吉田玲雄氏に直接お話していただきました。

 

 
 

 

和と洋も世代をも越えたPorter Classic

今PHAETONでは、70年経ても今もなお愛され続けている、和も洋も世代をも越えたイサム・ノグチのAKARIにフォーカスを当てているのですが、Porter Classicにも通じるものを感じます。

PC KENDO PC SASHIKOというのはまさに和も洋も越えた全く新しいプロダクトだと思います。今や世界的な評価を得ているわけですが、日本のブランドとしてどう感じられていますか?

 


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その質問の答えは多分、
「どういう経緯で今に至ったか」ということですよね。

 

 


祖父|吉田吉蔵の歴史

全ては祖父から始まったのですが、祖父は10人兄弟に生まれ、家族が多いために12歳で上野の老舗カバン工房に弟子入りしました。当時は「自転車がこれから来る産業だ」という風潮で、家族のほとんどが自転車産業に向かった中、祖父は鞄の職人の方が「東京にあったから」という理由でそっちへの憧れで鞄を選ぶんです。それで丁稚小僧で、手縫いの鞄が始まるわけですね。それがうちの家業の分岐点というか、生まれた瞬間なんですよね。

 

 

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そこから祖父は一代で鞄の会社を作り上げて、子供が5人生まれたうちの、末っ子が父(克幸)です。当時の鞄屋さんは、修行をするのに大阪とかへ送られるわけですよ。それが当たり前の時代に、長男だったうちの叔父をイタリアに修行に行かせたんです。

 

 

考えられない発想。日本のカバン屋っていうのが、今でもそうだけど、ものすごくコンサバティブで、ものさしの多い分野なんですね。そんな中、叔父がイタリアへ。当時新聞にのったくらいで。みんなで空港へ行って国旗を振って見送ったみたいなことで新聞に出て。それでイタリアに行ったら、某有名ブランドの次男坊だったかな?と出会って

 

「君その鞄どこの鞄だよ?」 と聞かれて、

「僕の父が日本で作った。」 って伝えて。

 

そこから交流ができて、そこから祖父のやっている物作りっていうのがこうなんだ、っていうのを叔父は感じたはずなんですよ。

 

 

 

父|吉田克幸の歴史

 

それで、父も叔父(克幸の兄)に「海外に行って色々見てきたらどうだ?」と勧められて、70年代海外に行くわけです。そこで父は最初ドイツへ行くんだけど、ドイツがつまんなくてロンドンに逃げるわけです。確か当時ね、祖父に内緒で貰っていた仕送りで車を買っちゃうんだよね(haha)その車でイギリスまで渡っていっちゃう。で、イギリスに行ったら、文化の爆発じゃないけど感性がそこで弾けちゃうわけ。当時ロンドンポップの時代なんだけど、それを見てね。

 

「なんなんだこれは!」って。

 

音楽も違う、ファッションも違う、全然自分が見たことがないところへ自分を置いて。今も有名なデザイナーたちが、当時まだ無名で、父と何かしらの接点があって仲良くなっていったんです。

 

 

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1970年23歳|ドイツへ留学
1972年25歳|ロンドン、パリ
その後ニューヨークへ

 

 

蚤の市との出会い|感性のるつぼ


そういう歴史があって、パリに見に行こうよってパリに行ったら、そこで蚤の市っていうのを知るわけですよね。そこに有ったありとあらゆるものによって、彼(克幸)の感性がはじけちゃうわけ。ものづくりっていう視点であらゆるものを汲み取って、

 

 

「これだったらうちの○○さんができる」とか
「これだったら○○さんに作ってもらえる」とか
 だんだん鞄を考えるようになっていったわけです。

 

 

うちの母ともその時に出会って、日本に帰ってきて家業の鞄の世界に入るわけですよ。

 

 

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1972年25歳|チェコ人の母との出会い
1973年26歳|結婚
1975年28歳|玲雄さん誕生

 

 

家業の鞄の世界へ


それで、自分の作りたい鞄が出てくるんですけど、それがもう当時は日本では誰も見たことのない鞄だったから、よくキチガイ扱いされたって言ってましたよ。で、その鞄で何をやっていたかっていうと、出来上がった鞄を石と一緒に加工して、ボロボロにして。(今でいうエイジング)それが要は「カッコイイ」って。だから、日本での鞄の作り方と全く逆で。でもそれは父が

 

 

「これが格好いいじゃない。

 こういうの作りたいんだよ。」

 

 

っていうのが形になっていったわけで。間違いなくそれは、ヨーロッパで過ごした数年だったり、のちにニューヨークにも行きますけど、そういう世界のいいものを、差別なく取り入れていたんじゃないかな。父は。

 

 

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1981年|日本人として初めて
「ニューヨーク・デザイナーズ・コレクティブ」
のメンバーに選出される

 

 

「良いものは良い」


そうやって、「良いものは良い」って自分(父)は思ってる。でも祖父からしたら全然違っている。イデオロギーですよね。あんなに一生懸命作ったものを、こんなボロボロにするっていうことに対して「なんちゅうことだ!」ってなるんだけど、結局はそれを認めるんですよ。最終的には。それで「俺のわからない時代がきた」って言うんだけど、

 

 

「良いものは良い」んだって。

だから、そこに繋がるんだと思うんですよ。

 

 


すごく長い話をしましたけど、何が言いたいかっていうと「格好いいものは格好いい」んです。理屈じゃないの。だからそれが日本のものだったり、海外のものだったり肌がこの色だったり、あの色だったりていうのは全然関係なくて、

 

 

すごい・すごくない、

使いやすい・使いやすくない、

歴史が変わる・変わらない、

 

そういうところだと思うんですよ。

 

 

 

最初にイサム・ノグチさんの話がありましたけど、僕、イサム・ノグチさんの名前って、日本人から聞いたことがなかったですよ。今41歳だけど、イサム・ノグチっていう名前は、ビート詩人から聞きました。ビートニクの。マイケル・マクルーアって僕の大学の教授だったんだけど。

 

だから、関係ないんですよね。国境も。
アンテナを張っていれば。

 

 

 

 

 

 

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日本の生地だからやっているわけではない


剣道着に話を持っていくと、日本では小さい頃から見ているし、それこそ父も見ているだろうし。そこでインスピレーションを受けているわけじゃなくて。アメリカの蚤の市だったかな、そこで延々と歩いて歩いていろんなものを見て、いろんなものがありますよね。アメリカの蚤の市は。そこでボロボロの剣道着を見た時に、今から何年前だろう?十何年前になるけれど、そこで

 

「なんて素晴らしい生地が日本にあったんだ」

っていうね。

 

剣道着なんてずっと日本にあったし、だけどそれをPorter Classicで今やってるようなフレンチジャケットで表現されているかっていうと、そうじゃなかった。それが、海外でそういう状態の剣道着の生地を見つけて、「なんて素晴らしいんだ」って感動して・・感動してなんだろうな。それを自分なりに昇華するっていう。「自分の形にしたい!」っていうので多分、父は「表面で見ていた」んじゃないかな。

 

 

だから、「剣道」じゃない。

「表面のあの生地」を見たんだと思う。

 

 

 

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我々は目の前にある点と点を見て、すぐに剣道を連想しちゃうから、多分フレンチジャケットっていうのが見えなかったんだと思う。父は表面をみて、「あ、すごい」って。それをもっと格好よくしたいって。

 

・・・「解釈」なんだよなあ。

 

 

 

 

解 釈

 

たとえば昨日、PHAETONで感じたのは、このスペースにいろんな商品が置けるのに、敢えて置かないっていうね。もう、解釈なんですよ。店舗づくりの。お客さんの経験を提供する、人の解釈。そういうことじゃないかな。いいものを感じる感性を、どういったところでみなさん作るかってことですよね。

 

 

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あと化学反応みたいなこともありますよね。当時の日本人が、1ドル365円の時代に海外に行って感じることと、今の我々が3万円で飛行機に乗って海外に行って感じることっていうのは全然情報量が違うだろうし。

 

 

 

吉田玲雄の歴史


僕は(上述の)そういう家系で育って、父はヨーロッパの人と結婚して、僕の母ですけれども。僕は日本の下町、浅草で育ちつつ、学校はいろんな人種の人が集まるインターナショナルスクールに行くわけです。それを12年間やるわけですよね。

 

大使館で日本にきている人たちの子供たちとか、投資関係だったりとか、もういろんな事情で日本に来た世界中の人の子供たちと同級生になって、そういう人たちと日常の会話が英語だったり日本語だったり混ざってたり、韓国の親友たちもいっぱいいるし、そういうところで育って。

 


差別なく捉える|インターナショナル

だから、僕は差別なんてしたこともないし、なんだろう、そういう風に人のことを見たことがないっていうか。一番インターナショナルなことって何なんだろうなっていうのをよく考えるんですけど、相手の文化で冗談を言えたら、インターナショナルですよね。相手の文化で冗談を言って、向こうも笑えるぐらいになったら、これはもうその文化のことちゃんと分かっているし。

 


ものづくりのボーダーレス


だから、その、そこなんですよ。

 

その線を超えちゃうと線が全然見えなくなっちゃうというか踏まれて消えちゃうというか。ものづくりでもそういうことで。だから、そういうのをやっているのが、今いろんな国で評価されてるんじゃないですか。そういう事をやってらっしゃるブランドさんが。大事ですよね、自分に正直にやっていくというか。

 


「技術力=強さ」ではない。


うちの父なんかを見て思うのが、例えば、うちの父が使える英語のボキャブラリーが1200個だったとします。その1200個だけで、ものすごくいいコミュニケーションを取っているんですよ。だけど、父の10倍言葉を知っている人が、父と同じくらいコミュニケーションが取れているかっていうとそうじゃない。

 

それはすごく、なんだろうな、技術でもそういうことだと思うんですよ。技術を500個持っている人、50個持っている人、全然違いますよね。でもその50個で、ものすごく表現できる人がいたら、やっぱり強いわけですよ。

 

 

表現力|感性を育てる


我々の商売、表現だと思いますけども、表現の力っていうのはすごく考えますね。表現の力っていうのは結局、頼るところって感性なんですよ。「技術があって感性がない人」だらけだと思うんですよ。だけど表現で人の心を動かすのって、感性だから、そこに技術がのっかってきたら強いですよ。素晴らしい。

 

 

もう、鬼に金棒。

 

 

お針子さん・職人が表に出る理由


うちの父が何か縫ったりしてないでしょ?それは絶対「感性の物作り」が大事なんですよね。だけど、その作れる人を育てるっていうのが彼の使命。これだけ技術があるのに感性がないと、宝の持ち腐れだったり。

 

お針子さんとずーっと一緒に仕事をしているのは、覚えているのは、父とたった二人で会社を始めた時に、初めて雇った人というのがお針子さんだったんですよ。営業でも販売でもなくて、デザイナーでもなくて。

 

 

お針子さんを最初雇ったんです。

 

 

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PHAETON Blog Archives 2013|“WORK SHOP”

 

 

 

その時の父の言葉が、「一番贅沢なのは、なんでもない、こんな服に、ちょんちょんと何か縫ってもらうだけでもいいし、描いてもらうでもいいし、それで自分だけのものにしちゃうのが一番の贅沢だ」って言うんです。だからそういうところから始まって、今刺し子っていう、またこれもうちの大事な大事なシリーズだけれども、そこも結局はね。元は破れちゃったところをお母さんが直したりだとか、寒い冬に負けないようにだったりとか、そういうカスタムですよね。その人その人、そのシチュエーション、シチュエーションの。

 

 

 

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今やってる、1点ものの本当に古い生地を保管して、丁寧に形に落とし込むっていうものもあれば、量産してる、ポータークラシックSASHIKOシリーズ。あれも色んな人に刺し子を知って欲しいというところから、1点1点刺していったら限りがあるので、時間も人数も。そういったところを職人さんが助けてくれましたよね。生地の開発を。色んな人に楽しんでもらえるように。

 

 

 

これがデニムに勝つぞ

by Porter Classic Official Website

 

 

出来上がったときはもう、
ハグでしたよ。

 

 

本当にあれは、うちの父は遺言だって言ってましたよ。自分の。「刺し子は俺の遺言だぞ」って。で、ずーっとデニムっていう偉大な文化があって、「これがデニムに勝つぞ」って言ったんですよね。その言葉をね、1人2人、3人4人と、信じる人が増えていって、その時が楽しみですね。

 

 

 

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それも、これからね、何年もかけてより良くしていきたいし。まだまだ改良したいところもあるし。そこへ行った時にこの刺し子の生地はこうできないかとか、そこは、安心しないというか、ずっと進化していくわけですよね。

 

おじいちゃんの時代からかな。やっぱり物を大事にするっていうね、その気持ちですよね。昔はその継接ぎして直したところっていうのは恥ずかしかったわけですよ。それをね、恥ずかしいって思わせたやつが犯罪ですよね。そんなに素晴らしい事はないし、愛ですからね。うちの母が父の継接ぎをやってたんですけど、今でも会社に飾ってますね。

 

 

あれだってうちの原点の一つですね。

 

 

 

 

Porter Classic / Director Leo Yoshida – Interview

▶︎  Vol. 1/3  ▶︎  Vol. 2/3  ▶︎  Vol. 3/3

 

 

 

 


 

吉田吉蔵|Kichizo Yoshida
吉田カバン創業者であり、吉田克幸の父/吉田玲雄の祖父にあたる。1906年に神奈川県寒川町に生まれ、12歳にしてカバン職人の道を選ぶ。1935年に吉田鞄製作所を設立し、二度の徴兵があるも乗り越え戦時中時の体験を生かしたカバン作りを行う。婚約前の美智子皇后が吉田カバンを愛用されたことも話題になり、1962年に自社ブランドのポーターを立ち上げる。1994年永眠。晩年までベッドの上で手を動かし続け、一針入魂、どんな端切れの革も大切にする姿勢などその信念は今も受け継がれている。KICHIZO by Porter Classicの由来となっている。

 

吉田克幸|Katsuyuki Yoshida
1947年、東京都生まれ。デザイナー。もとカバンのチーフディレクターとして活躍。1981年には日本人として初めて「ニューヨーク・デザイナーズ・コレクティブ」のメンバーに選出される。その後、独立しPorter Classicの代表を務める。2010年4月には「PAWN SHOP」という質屋をオープンし、6月にはカバンの新レーベル「KICHIZO」が全国展開し始めた。

 

吉田玲雄|Leo Yoshida
Porter Classic 代表。1975年、東京都生まれ。写真家、作家。父・克幸とチェコ人の母との間に生まれ、1993年にセント・メリーズ・インターナショナル・スクールを卒業後渡米し、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコの大学で映画と写真を専攻。 2003年にサンフランシスコ・アート・インスティテュート大学院卒業。2017年Porter Classic代表に就任。著書『ホノカアボーイ』(2006年えい出版社、2008年幻冬舎から再版)は映画化され、2009年3月14日に全国東宝系でロードショーされた。

 

※吉田の吉は正確には土に口の「つちよし」ですが、表示できる環境に制限があるため、普通漢字の「吉」としています。

 

マイケル・マクルーア|Michael McClure
アメリカのカンサス州生まれのビートニクの詩人。戯曲家としても高い評価を受ける。1950年中盤、サンフランシスコのビート・ルネサンスの片翼を担う存在となる。ボブ・ディラン、ジム・モリソンらと邂逅し、1960年代空前のカルチャー・ムーヴメント「サマー・オブ・ラヴ」の渦中へ身を投じることになる。現在もポエトリー・リーディングを継続している。