「香りの女王」ローズと並び、「香りの王様」として古代エジプト時代から香料原料として使われてきたジャスミン。
ヒンドゥー教の女神が、ハートを射止めるためにジャスミンの精油が塗られた弓を持っていたなど、古くから愛や官能と結びつけられ媚薬としても用いられてきました。
「香りの王様」の名の通り華やかで濃厚な香りで、フローラルノートの代表として人気の高いジャスミンの香り。その豊かな香気の内に潜む秘密を解き明かすべく、様々な研究者によりその香気成分が分析されてきました。
そうして現在では、900種類以上もの香気成分が発見されています。複雑な香りの中には、わずかに動物的(アニマリック)に感じられる、独特な香りが含まれているのも特徴です。そのクセになるような香りが、他の花にはない魅力になっているのでしょう。
そんな中でも、透明感と温かみがありジャスミンの優雅な香りに貢献していると言われるのがジヒドロジャスモン酸メチルという分子。
「ヘディオン」と名付けられたこの分子は、ジャスミンに微量しか含まれていないもの特徴です。
単独では強く香らないものの、他の香りと合わせることで深みを出したり香りの持続性を高めるなど、影の立役者のような役割を果たすヘディオン。
香料素材として魅力的でありながら、ジャスミンの花から採取することは経済的に難しい。そこで、他の原料から化学合成できないかと研究者たちは考えを巡らせます。
そして試行錯誤の結果、1960年代世界三大香料メーカーの一つであるフィルメニッヒ社によって合成香料の「ヘディオン」が誕生します。
初めて香水に使用されたのは、1966年にChristian Diorから発売された「Eau Savage」。それ以降、フレグランス業界に一大革命を巻き起こします。
Eau Savageが世界的な成功を収めたのはもちろんの事、香りに豊かさやしなやかさなど繊細な表情を与えるヘディオンは、多くの香水の創作に欠かせない成分となったのです。
ヘディオンの表記はあまり目にすることはあまりありませんが、ヘディオンのを含まない香水の方がむしろ少ないと言われるくらい、現代でも多くの香水に使用されています。
天然のジャスミンからヘディオンを取り出していたら、とても庶民の手に入らないような高価な香料になっていたでしょうから、化学がもたらした賜物と言えるでしょう。
19世紀に合成香料が発明されるまで、香りの分子の供給源はもっぱら植物でした。さらに、植物から得られない独自の香りは、動物から得てきました。しかし、天然物から香料を得ることは大変な作業です。
ジャスミンの場合、夜中に満開になり一番芳香を放つため収穫は夜中から明け方にかけての時間帯のみ、そして1kgの香料を得るために600万個の花必要と言われます。その他にも天然の植物は、気候による品質・収穫量の変動もあります。また動物由来の香料の入手も決して容易ではなく、安定的ではありません。
そうした事情から、多くの香料は高価であり貴重品でした。これらの香料を自由に使えるようになることは人間の一つの夢ですらあったことでしょう。
現代では、有機化学の一分野である天然物化学により、天然に存在する種々の分子がどんな化学構造をしているかの研究がなされています。最終的には、その分子を化学的に合成し、それが天然から抽出した分子と一致することを確認する。それを繰り返し行うことで希少な香り分子を人工的に作る道を開くことができたのです。そして多くの人々が香りを楽しみ、活用できるようになりました。
私たちは日々「いい香り」の恩恵を享受しています。
そこには、自然のめぐみから生まれた神秘的な天然香料や、香りの魔術師である調香師たちの存在が不可欠です。
そして、これだけ手軽に楽しめる背景には、多くの化学者たちの地道な努力によって積み上げられてきた研究の成果があることも忘れてはいけません。
参考資料
・香りの百科事典 丸善株式会社 谷田貝光克・編
・「香り」の科学 株式会社講談社 平山令明・著
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